死んだらどうなるのか


具体的に本質的にちゃんと書かれています。
比喩ではなく直接的なのでよくわかりますね。

よろしい。
さて、死んでも創造をやめない理由は、死にはしないからだ。
死ぬことはできない。
あなたがたは、生命そのものだ。
生命が生命でなくなることはできない。
したがって、死ぬことはない。

では、臨終のときに何が起るか・・・生き続けるのだよ。
だから、「死んだ」ひとの多くは、自分が死んだとは信じられない。
死を経験しないから。
それどころか、自分を非常にいきいきと感じる(ほんとうに、いきいきとしているのだからね)。
そこで、混乱が生じる。

「自己」は身体がぼろぼろになって、じっと横たわっているのが見えるかもしれない。
だが、「自己」はあらゆる場所を飛びまわれる。
文字どおり、空中から部屋を見下ろす経験もする。
それから、あらゆる場所のあらゆるところに、いっぺんに存在する。
どこかに視点を定めたいと考えると、たちまちそうなる。
「おかしいな、なぜ、わたしの身体は動かないのだろう?」と不思議がれば、魂は(「自己」をこう呼ぶことにするが)、自分がじっと動かない身体を見下ろしているのに気がつくだろう。

誰かが部屋に入ってくる。
魂が、「誰だろう?」と思えば、そのとたん、その人物の正面に、あるいは隣にいる。
ほんの短い間に、魂は思考と同じスピードでどこにでも行けるのだということを学ぶ。
魂は信じられないほどの自由と軽やかさを感じるが、思考のスピードであらゆる場所を飛びまわるのに「慣れる」には、ふつうは少々時間がかかる。

もし子供のことを考えたとすれば子供がどこにいようと、たちまち魂は子供のそばにいる。
こうして魂は、どこでも行きたいところに思考のスピードで行けるだけでなく、いっぺんに二つの場所にいられることも学ぶ。
それどころか、三つの場所でも、五つの場所でも同じだ。

魂は困難も混乱もなく、いくつもの場所に存在し、観察し、そこで行動できる。
それから、焦点を定めるだけでひとつの場所に戻り、自分と「再合体」する。
つぎの生命のなかで、魂は、この世でも覚えていたほうがよかったことを思い出す。
すべての出来事は思考が創り出すもので、それは意図した結果の現れだということだ。

意図して思考を集中すれば、それが現実になるんですね。

そのとおり。
唯一の違いは、結果を経験する速度だ。
物質的な生命の世界では、思考と経験の間にずれがあるだろう。
霊の領域では、そのずれがない。
結果は即座に現れる。

そこで、この世を去ったばかりの魂は、注意深く思考を観察することを学ぶ。
考えたとたんい、現実化するからね。
「学ぶ」という言葉を使ったが、これはまあ、言葉のあやだな。
「思い出す」というほうが正解だろう。

物質的な世界の魂が、霊的な魂と同じくらい素早く思考をコントロールする方法を学べば、人生はがらりとかわるだろう。
個々の現実の創造に関しては、思考のコントロール(ひとによっては、それを祈りという)がすべてなのだよ。

(中略)
では、要約してみよう。
身体から解放された魂は、すぐに注意深く思考を監視しコントロールすることを思い出す。
何でも考えたとたん創造され、経験となるから。

もちろん魂が身体のなかに宿っているときでも同じだ。
ただ、結果がそれほどすぐに出ないだけだ。
思考と創造のあいだにある「時間」のずれ(何日、何週間、何ヶ月、あるいは何年もかかるかもしれないが)、それが、ものごとは自分が起こすのではなく自分の身にふりかかるのだという幻想のもとだ。
この幻想のために、自分自身がものごとの原因であることを忘れる。
この忘却も「システムのなかに組み込まれて」いたプロセスの一部だ。
ほんとうの自分を忘れなければ、ほんとうの自分を創造することはできない。
だから、幻想によって忘れるのには、ちゃんと目的があるのだ。

そこで、身体を離れ、自分の思考と創造のあいだに瞬間的で明確なつながりがあるのを知ると、仰天する。
最初は衝撃を受けるが、やがてとても楽しくなる。
自分は経験を創造する原因であって、結果ではないことを思い出すからね。

Posted: 水 - 11月 10, 2004 at 10:16 PM      


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