生と死


移ろいゆくことが生命みたいです。
変わらないでいることはできません。
それと自殺について答えが書かれています。
見てみると、あっけないほど明白ですね。

(中略)
これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。
どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。
死から目をそむけているから、自分自身の生命を考えなくなるんだよ。

(中略)
死は決して終わりでなく、つねに始まりだ。
死は閉じられたドアではなく、開かれたドアだ。
生命が永遠であることを理解すれば、死は幻想で、その幻想があなたの意識を身体に集中させ、身体が自分だと信じさせていることがわかる。
だが、あなたは身体でない。
だから、身体が朽ちても、あなたとは何のかかわりもない。

死は、真の生命とは何かを教えている。
生命は、避けられないのは死ではなく、移ろいゆくことだと教えている。
移ろいゆく、それだけが真実だ。
不変なものは何もない。
すべては変わる。
一瞬一瞬に、一時一時に。

(中略)
だから、あなたがたは発ガン物質を吸収して自分のシステムを毒し、化学物質で処理された食品を口にしてシステムを毒し、呼吸する空気を汚染し続けてシステムを毒している。
何千もの異なる瞬間に何百もの異なる方法で自分のシステムを毒し、しかも、そういう物質が良くないと承知している。
長い時間がかかるから、この自殺は罰せられない。
もっと即効性のある毒だったら、倫理と法に反すると言われる。

いいかね。
迅速に自分を殺すことが、ゆっくりと自分を殺すことより倫理に反しているわけではないのだよ。

それじゃ、神は自殺したひとを罰したりしないんですか?

わたしは罰したりしない。
愛するのだ。

よくいうじゃありませんか。
苦しみから「のがれ」ようと、あるいはつらい状況に終止符を打とうとして自殺したひとは、「あの世」で同じ苦しみ、同じ状況にぶつかるだけで、のがれたことにも、終止符を打ったことにもならない、って。

「あの世」で経験することは、そこに入るときの意識の反映だ。
あなたがたはつねに自由意志をもった存在であり、選びなおせばいつでも経験を変えることができる。

それじゃ、愛する者が物質的な生命を終わらせたからといって心配しなくていい、彼らはオーケーなんだってことですか?

そう、だいじょうぶ。
彼らはオーケーだよ。
あなたがたの社会では、自分たちの倫理構造の矛盾がわかっていないことが多い。
ゆるやかに生命を縮めるのはいいが、即効性のある方法はとんでもない、というのは矛盾だよ。

たしかに、明々白々という感じがします。
どうして自分でわからなかったんでしょうね。

Posted: 月 - 11月 15, 2004 at 08:42 PM      


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