完璧でなくてもいい
ここから現実の生活がどう変わったか
昨日は庭の草抜きをしました。
YouTubeの動画を見て、熱湯をかけると雑草が枯れるということがわかりました。
でも一度にポットで沸かす1リットルくらいの量では狭い範囲しかかけられないので、併用しながらやっています。
それでまあまあサッパリしてきました。
前は草1本も生えていないように、本腰を入れて抜いていました。
それで時間もかかり、終わったら腰が立たなくなったりしていました。
でも今はやり方を変えて、長く伸びた草だけ抜くようにしています。
完璧でなくてもいいんです。
ざまくい感じでなくなって、そこそこ小ざっぱりしていれば十分です。
そうすることで草抜きも辛くなくなりました。
週1回水曜日は草抜きの日と決めて、ウォーキングの後30分くらいでサッと終わっています。
汚れた服の洗濯も一度に済むので、面倒がなくなりました。
そんなことをやっていたらふと気が付きました。
頭の中も庭の雑草のように、次から次へと想念や感情が起きてきます。
今まではそれにいちいち対処していました。
それでもさすがに追いつきません。
常に頭の中がモヤモヤしていました。
これではダメだ、もっと完璧でなければと思っていました。
でも草抜きと同じで、モヤモヤしていてもいいんです。
もっと言えば覚醒などしていなくていいのです。
どうしても気になるものだけ、ちゃんと対処できていればいいのです。
あとは起きてくまま、雑草と一緒で生え放題でいいのです。
そう考えたら気が楽になりました。
頭の中がちょっとスッキリしました。
完璧でなくていいんです。
完璧を目指すのはいいことですが、特に雑草や頭の中はそうするのは現実的ではありません。
そこそこがこの物質世界では現実的で、それが正解なのです。
これからまだ長い人生があると思いますが、そう考えると気楽にいけます。
もちろん何でもいいというのではありません。
完璧は目指しますが、追い求めません。
もっと考えてみると、この物質世界のことは何が優れているというのはないのです。
全て同じ平等なものです。
それは絶対的なものとの違いがあるだけです。
全て同じレベルなのです。
今日やっていた皿洗いやゴミの資源の仕分けも、このスピリチャルをやっていることと同じです。
どちらが重要というのは、この物質世界の中ではありません。
それでどんなものも同じような意識でやっていきます。
皿洗いも心を込めてやっていきます。
毎日の日常が大事なのです。
何か特別なことやっていると、すごいことをやっている気になります。
それが偉いと思ってしまいます。
そうではないのです。
今目の前ことが一番大事なのです。
シンプルです。
これからはあまり難しく考えすぎません。
今目の前のことを一生懸命やっていきます。
それだけでいいのです。
それがそこそこやれていればOKです。
(20240509)完璧でなくてもいい