私の視点が源そのものである

次元上昇が始まってきている

AIOラブフローという動画は、前からすごくいいことを言っていると思っていました。

でももうスピリチャルの勉強はいいかなあと思ってあまり見ていませんでした。

それが今回どうしても気になって見てみたらすごかったです。

こういう本質的なことが大事なのです。

ここが分かっていれば、あとは道を逸れ外れることはありません。

これを知ればもうこれ以上勉強する必要がないと思えるくらいです。

今までは源と自分が別のものと思っていました。

現実は自分の視点を映し出しているので、量子は「私は受信者である」という視点を忠実に再現します。

ですから「導かれる現実」が現れます。

ますます自分と外側の分離の感覚が強くなってしまいます。

探していた源は外側にあるのではありません。

私という視点そのものが源なのです。

自分は受信者ではなく、源そのものです。

宇宙は自分という源の視点から展開していくのです。

立ち位置が完全に変わります。

繋がろうとするのをやめて、この理解から生き始めるのです。

従来の視点:「宇宙と繋がっている」

源の視点:「宇宙が自分の視点から展開している」

神様にサインをくださいという視点から、私が神という概念を使って遊んでいる視点に変わります。

何かを手に入れようというスタンスから、全てはもう自分の中にあるというスタンスになります。

言葉も思考も変わります。

源視点の特徴

つながる、切れるがない。

上下のヒエラルキーがない。

常にオン(オフ不可)。

頑張って現実化しない。

この圧倒的な自由と軽やかさが特徴です。

現実をどうにかしようとする衝動が、静かに消えていきます。

どうにかしようという日々の終わらない格闘がなくなっていきます。

繋がりを探していたことは、間違いでも無駄ではありませんでした。

それはただ分離を遊ぶフェーズだっただけです。

そんなルールの経験をしたかっただけです。

これは覚醒をしたという大袈裟な話ではありません。

最初から自分がこのゲームのプレイヤーだったことを思い出しただけです。

すごい自分になるのではなく、元々の自分を思い出しただけです。

ゴールは悟りを開くことではなく、あーそうだったと気付くことだけだったのです。

外側を探すのをやめ内側を見る必要がなくなり、源そのものの視点に立った時、どうなっていくのでしょうか。

この動画もここで終わっていますが、それはなってみてのお楽しみといったところでしょうか。

源そのものの視点に立てば、体の力を抜いて気楽でいるだけでいいのです。

それは昨日久しぶりにテニスをしていたら、思い出そうと力が入っていたのか、相手の方にもっと楽に打ったらと言われました。

それで後の試合は体の力を抜いてやったら、まあ何とか上手い具合にやれました。

こちらのAIOラブフローという動画でもそう言っています。

スピリチャルをやってるとこんなハマりやすい罠に気を付けます。

内面を整えば現実も変わる。

この希望に満ちたアドバイスが、実は自己改善のループに閉じ込めてしまう罠なのです。

内面が変われば外面も変わる。

波動を上げれば外の現実もよくなる。

自分の人生を全部コントロールできように思えてきます。

そんな「整える」ことが不安に繋がります。

私と私の内面が別々のものになります。

自分自身が自分を操作してコントロールする、いわば自分が管理者みたいな立場になります。

それは外側をコントロールしようとしたターゲットが内側に変わっただけです。

矢印の向きが変わっただけで、やっていることは同じです。

1常に内側をチェック。

2ネガティブの否定。

3監視の常態化。

結果として終わらない監視と自己否定が常態化して、ずっと自分を監視してダメ出しし続けるサイクルになってしまいます。

そこで視点の転換です。

「マニュアル」ではなく「説明」。

内面を整えれば外面も変わるという現実を操作するための取扱説明書ではなく、現在の自分の在り方を映し出しているだけという観測構造の説明だけなのです。

源と視点から見るとシンプルになります。

そもそも内と外は分かれていないから整える対象が存在しません。

乱れている源という概念がなく、そのまま在ることが世界そのものです。

内側を整え続ける人ほど、「まだ足りないという前提」を強化しています。

ものすごいパラドックスです。

内側を信頼する、もまだ信頼する側の「自分」と信頼される側の「内面」が分離しています。

何も触らないとうのが正解です。

自分の内側で何が起きていても評価したり操作しようとせず、ただそのままにしておきます。

評価しなければ心が落ち着くことがあるかもしれませんが、それは目標ではなく単なる副産物です。

落ち着こうとして評価しないという新しい罠になるの注意です。

「内を整えれば外界が変わる」は、外を操作する発想が内側に移動しただけです。

源の視点に立てば、内側も外側も整える必要はどこにもありません。

この動画は自分を操作することをやめた時、何が広がるのだろうかという問いで終わっています。

ではどうしたらいいか難しく考えなくても、ただいかにお気楽でいれているかでいいと思います。

何事も真剣に向き合い過ぎないようにします。

思考の相手をしないということです。

楽しくやっていきます。

それでいいのです。

最後はこんなことに落ち着きました。

(20260214)私の視点が源そのものである

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