間違っているように見えるこの世界は、間違っているのではなくこれで正解

ここから現実の生活がどう変わったか

この現実は集合意識から創られているので、自分の思いどおりにはなりません。

ですから思いどおりでないのが本来なのです。

思いどおりにならなくて嘆くというのは、勘違いをしているのです。

思いどおりにならないから、完全と思えません。

でもそれが本来なら、思いどおりになっていない今完全とも言えます。

思いどおりになっていないのが正解なのです。

また現実は予期せぬこともきてきます。

人間は全てのことがわからないので、どうしようもありません。

全てのことがわかれば、予期せぬことはありません。

全ては法則どおりちゃんと起きています。

全ては完全に動いています。

わからないだけで、本当は予期せぬことはないのです。

すべての人に好かれることもありません。

キリストでも迫害されました。

この世界ではそれが当たり前なのです。

やろうとするのは、全ての人に好かれることではありません。

それは不可能です。

やるべきはそうした時、傷つかない心を持つことです。

全ての人に好かれることないのですから、それしかありません。

それには満たされた心を持つことです。

自分が満たされていれば、何があっても傷つくことはありません。

それは思いどおりにならないことや、予期せぬことが起きてくることもそうです。

この世界では、それらは避けられません。

そういった時、自分が傷つかないようするしかありません。

全ては完全に働いているのです。

この世界はこれで完全なのです。

何も間違っていることが起きてきてるのではありません。

今この物質世界に完全さを体験するために来ています。

完全さを体験するためには、先に不完全さを体験しないとできないのです。

ですから不完全と感じることは、間違っていることが起きてきてるのではなく、それが正解なのです。

ただその間違っていると思うことにはまり過ぎているのが問題なのです。

それはそういうことだとわかって、それ以上深入りしないことです。

理屈は合っていると思いますが、そう思うためには満たされた心がないと厳しいのです。

今ちゃんと完全さを体験できる環境にいます。

それをやれています。

そういう意味ではまさに完全なのです。

ここにいるのは神の完全さを体験することが、本来の目的です。

それ以外はそのオマケと言っていいと思います。

オマケはオマケなので、そのオマケを楽しんでいればいいだけで、それ以上のことはありません。

神の完全さを体験することは内面的なことです。

外側のものはただのオマケです。

目覚めは内側の出来事なのです。

ここではこの神の完全さを体験するゲームしか行われていないようなのです。

ですからそれを。やるしかありません。

途中で降りることもできません。

そのゲームをやっていきます。

そのゲームを楽しんでいきます。

それがこの物質世界の本体のやり方です。

(20240512)間違っているように見えるこの世界は、間違っているのではなくこれで正解

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